大阪天満宮について

大阪天満宮 表門

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大阪天満宮とその歴史

大阪天満宮はもともと漁師民によって、道教・陰陽道の星辰信仰(星に象徴的な意味を付与し、尊崇する信仰)に則って 創祀 そうし され、「天満天神」「 浪華 なにわ ) 菅廟 ( かんびょう ) (「菅廟」は菅原道真公を ( まつ ) る建物の意味)」「中島天満宮」 「摂津南 中島惣社 なかじまそうしゃ 天満宮」「天満天神社」「天満神社」「天満宮」「天満社」「天神宮」など、時代により呼び方は変化していきました。 今では地元大阪の市民からは「天満の天神さん」と親しみを込めて言われています。
大阪天満宮は平安城の北の方にあった北野天満宮と長岡の天満宮にならって創祀されたものと見られています。

大将軍の社
大将軍社の石碑。
菅原道真が立ち寄ったことが書かれています。

なぜ神社ではなく、菅原道真を祀っている「大阪天満宮」と表している理由は諸説ありますが、 ① 皇白鎮護の神として 奉斎 ほうさい されていた「大将軍の森」に菅原道真が大宰府に向かう途中に参拝したことから由来するようです。「大将軍の森」は後に「天神の森」と呼ばれるようになりました。つまり、菅原道真が、太宰府への船を待っている間に、摂津南中島(現大阪天満宮)の大将軍社に参拝して、お衣装軍の森から乗船した由縁から、大阪天満宮が 鎮祭 ちんさい され、大将軍社はその境内社になったようです。
また、別の説として② 大将軍社が鎮座していましたが、村上天皇の 勅願 ちょくがん によって創祀されたとされています。すなわち菅原道真は出てきませんが、一晩のうちに「松七本」が生えたことが重要な鍵となり、 ③ 一夜にして松七本が生えたことに対して、菅原道真が難波の梅を慕って、松の梢に霊光を発したという話もあり、そこから「難波梅」と「菅原の神霊」の要素が加味されたことも考えられます。

松の木
大阪天満宮近くには松の木が茂っていました

「七本の松」

また、先ほど「大将軍の森(天神の森)」と称しましたが、この森も松林であったものと見られています。
北野天満宮の創祀を伝えている「皇代記」にも「一夜にして数千本の松が生えた地に、天神が勧請された」というものですが、これも「松」に対する言及があります。当時の人々の間では「松」は菅原道真の化身であった、という見解もあり、それから松七本が一晩に生えたことは神託があったためではないかということから天満宮の由縁になっているものと考えられます。
神社にとって、境内の外にある森林は単なる景観ではなく、神々が依り代にするものでもあったとされています(余談ですが、大阪天満宮近くにある「南森町」という地域も「森」と書かれていることから察するに森林地域であったようです)。平安時代末期に照葉樹を用材伐採や燃料採集、焼き畑耕作などに用いられることによって大いに減り、照葉樹から針葉樹への転換が進んだものと見られます。
この時代をさかいに「松」が一般的になり、天神信仰は針葉樹→松への信仰と関わりながら成立していったようです。話には出していませんが、林屋辰三郎氏は天神信仰と「雷神信仰」「殺牛儀礼」との関わりについて論証しましたが、「松樹信仰」も天神信仰の一つの要素となっていたようです。

また、なぜ「七本」かとなるのですが、この「七」は髙島幸次氏によると「北斗七星」の光とも考えられるとも述べています。大阪天満宮の近くには「明星池」だけでなく、「七夕池」「星合池」という3つの池がありました。七本松が北斗七星の隠喩もしくは比喩であれば、北野天満宮の「千本松」は、満点に輝く無数の星ということになると考えられます。この点からも大阪天満宮は星辰信仰の影響を受けていたともとらえられます。

ご存じの方もおられるでしょうが、菅原道真は梅が好きだったのではなかったか? という疑問も生じます。
これは鎌倉時代に「菅公愛梅説」が流布していたからだと言われ、それに伴い平安時代に天神信仰と深い関わりがあった「松」や「神の依代」があったことも忘れていったようです。
ですが、12,000社ある天満宮には必ずと言っていいほど梅が植えられています。大阪天満宮では約500本、北野天満宮は50種1,500本の梅が咲くことで有名です。

大阪天満宮盆梅展の様子
大阪天満宮では2月〜3月にかけて盆梅展が開催されます

戦国・安土桃山・江戸時代の大阪天満宮

戦国時代の大阪天満宮

応仁の乱の後の大阪天満宮は、当時有数の連歌のサロンであったとされています。というのも、菅原道真は「文学の神」だけでなく「連歌の神」としても崇敬の対象になっていき、中世には大阪天満宮だけでなく、北野天満宮・太宰府天満宮・近江の菅原神社・大和の染田天満宮・長谷の予喜天神など、各地の天満宮において連歌会が行われていたようです。

安土桃山時代の大阪天満宮

石山本願寺と織田信長の戦が起こった際に、大阪天満宮は石山本願寺側につきましたが負けてしまい、大阪天満宮の神領は信長にすべて取り上げられ、神宝、古記録類も消失してしまいました。取り上げられた神領は高2500貫に及び、天満まわり七ケ村、淀川面までも大阪天満宮の領地であったとされています。
しかし、豊臣秀吉の時代になると、秀吉の側近が大阪天満宮の社僧を務め、連歌会を催し、大阪天満宮の復興に尽力しました。面積は長柄村から福島村までの間の五ケ庄を寄進されたと言われています。

江戸時代初期の大阪天満宮

徳川家康が江戸に幕府を開いた後も、大坂(当時の大阪の名称)では戦乱の余風は収まることなく、慶長十九年(1614年)十月には「大坂冬の陣」が起こりました。このときに起こった一揆に「中島一揆」というものがありましたが、当時摂津吹田村にいた橋本清大夫らが一揆の懐柔を謀りそれに成功しました。中島の農民たちは城を退き、神崎川を渡り吹田に移りました。 なお、この時の大阪天満宮は大阪城に籠城していましたが、それは秀吉に懇意にされていたからだと言われています。しかし、戦局は思わしくなく翌年(慶長二十年・1615年)四月、大坂夏の陣の火蓋が切って落とされると、中島一帯の農民は、戦場となるのを免れた吹田方面へ避難し、大阪天満宮も神輿をはじめ神社内のすべての人まで残らずに吹田村の橋本邸(現吹田市南高浜町)に避難しました(環座)。

環座先の吹田から現在の大阪天満宮の場所に戻った時期(ご神体の環座)は、菅原道真の生誕800年に当たる寛永21年(1644年)と言われています。

「神社」と「天満宮」の違いとは

神社産土神 うぶすながみ 天神地祇 てんじんちぎ 、皇室や氏族の祖神、国家に功労のあった者、偉人・義士などの霊を神として祀った所とされ、別の言い方では「やしろ」「おみや」「じんしゃ」と読みます。言うなれば神様を祀る聖域のことを指しています。

天満宮は学問の神さまとして名高い菅原道真を祀神とする神社の総称で、菅原道真以前は雷神( あま つ神様すなわち天神さまの一人)を祀る神社でした。その雷神と菅原道真の祟りが結び付けられ、後に学問の神様へと昇華され奉られるようになりました。*天つ神とは「天上界にいる神。また、天から下った神」様のことを指します。対して 国つ神 くにつかみ は日本の国土に土着する神様で、地神・ 地祇 ちぎ とも呼ばれています。

天満宮と称する大阪天満宮は有名な神社の一つと言われています。

大阪天満宮裏口
スタジオアージュ近くにある大阪天満宮裏門。
一部の鳥居は朱色ではありません。
笠木 かさぎ が沿っているので「明神系」と言われています。
大阪天満宮にある朱色の鳥居
大阪天満宮にある朱色の鳥居の一例

大阪天満宮の「狛牛」

狛牛一匹目
狛牛二匹目
狛牛三匹目
大阪天満宮には三匹の狛牛がいます

天満宮や天神社に多くいる牛の石像ですが、これはご祭神である菅原道真の生まれが丑年丑月丑日丑刻であるなど、牛と深い関わりがあるので、天満宮の 神使 かみつかい は牛とされています。また、「 撫牛 なでうし 」というものが天満宮などにも必ずいますが、体の悪い部分と同じ部位を撫でると治るという「 撫物信仰 なでものしんこう 」の一つで、どの撫牛も厄除けの願いが込められ、ツルツルに光っています。

大阪天満宮の撫牛
大阪天満宮にも撫牛がいます
学問の神様の神社らしく頭が撫でられ光っています

大阪天満宮の「十二支方位盤」
- いない「鶏」と「鳳凰」の関係

酉の方位には鶏ではなく鳳凰がいる
酉の方位には「鶏」ではなく「鳳凰」になっています

通常、十二支をデザインした絵馬や土鈴などには「鶏」が酉の方位にいますが、大阪天満宮では鶏ではなく鳳凰がいます。初詣の授与品である絵馬などにも鶏はいません。これは菅原道真が、道明寺のおばさまとの早朝の別れを惜しみ

鳴けばこそ 別れをいそげ 鶏の音の 聞こえぬ里の 暁もがな

と詠まれたという故事によって、道真への配慮をはかったからと言われています。大阪天満宮では、今でも雉や鴨はお供えしますが、鶏はもちろん鶏卵さえお供には用いていません。

なぜ鶏はダメだったのか? -「鶏飼わず」伝承

これは諸説ありますが、鶏は「この世とあの世の境目に現れる・境界的な」「不吉な」ものと扱われたことから起因するものと思われます。上の詩は鶏が出立を促したから嫌われたと解釈できますがそうではなく、昔の人々が鶏に不吉なイメージを持っていたからであると考えられます。
なお、南方熊楠が上の詩である「鳴ければこそ」について、これは太田道灌の歌を真似た偽作と言っています。

それではなぜ鶏はダメなのか、というと、大阪天満宮の原型であった雷神信仰と関係していますが、中国ではその雷神は鶏が恐ろしい、とされていたようです。雷神=道真ですので、道真は鶏が恐ろしいとなったものとも考えられます。いずれにしても、天神信仰では、本来鶏を避けるべき存在でしたので鶏を十二支の酉として扱うことは避けるに越したことがなかったのでしょう。

鳳凰であるのはなぜか?

なぜ鶏ではなく鳳凰を酉の位置として指定されたのかという疑問が生じますが、それについては諸説あります。
鳳凰は孤高で俗界を超越しており、「鳳凰 群鶏 ぐんけい と食を争わず」というように「誇りが高く、孤高を守って世俗の人たちと行動を共にしないたとえ」として用いられ、転じて「鳳凰は、ニワトリの群れと食べ物を争い合うようなことはしない意」としても用いられています。
また、鳳凰である理由としては大阪天満宮の創祀伝承の中にありますが、大阪天満宮が今でも大将軍社を境内社として祀っています。この大将軍とは、陰陽道で言う西方の星、太白の精で、四方を正すことを司り、方除の神とされています。そして、大阪市立美術館が蔵する「五星二十八宿神形図巻」には、鳳凰に乗った太白星(金星)が描かれています。また、大将軍社は、太白星を祀る以前は、北辰(北極星や北斗七星)の信仰を中心とする星辰崇拝の拠点でした(事実、大阪天満宮の夏祭り「天神祭」ももともとは七夕祭の日である七月七日に行われていました)。
最近になり、中山理氏によって、空想の鳥である「鳳凰」の姿は、古代の中国では鶏をモデルにされていることが明らかになりました。
大阪天満宮において、鶏の代わりに鳳凰が選ばれたときにはすでに「鶏飼わず」の本来の意味が忘れさられてしまいましたが、むしろ鳳凰が鶏に似ていることから察するに、鶏とのギャップが少ないという点においては都合が良かったのかもしれません。

絵馬の酉も鳳凰
絵馬の酉も鳳凰です

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