天神祭で有名な花火
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天神祭は大阪天満宮を中心に6月下旬の吉日から一ヶ月にわかって様々な行事が行われています。
祭りのクライマックスは、宵宮祭の鉾流神事と本宮祭の船渡御です。
鉾流神事では、白木の神鉾を手にした神童や共の人たち200人が大阪天満宮から斎場に向かいます。一年の前半の穢れを落とす夏越祓の神事の後に、船で堂島川の中程に漕ぎ出し、神童によって船上から神鉾が流されます。
本宮祭の船渡御は、神霊を乗せた御鳳輦奉安船にお囃子船などを従え、大川を航行する神事です。
「天満宮」はそもそも陥れられ不遇の死を遂げた菅原道真の怨霊を鎮めるために作られた神社です。
天神祭も菅原道真の魂を祀ることが源流になっていますが、菅原道真の墓所が神社となった太宰府天満宮や、朝廷が菅原道真を祀るために作った北野天満宮と比べると、大阪天満宮は前二社ほど菅原道真とのつながりは深くありません。
しかし、天神祭が日本三大祭にまで発展したのは大阪商人の力量だと言えます。大阪が商業の都市として発展していく中で、力をつけてきた大阪商人と町人たちが、その力を誇示するためではなく、自分たちも楽しむために盛り上げてきたとも言えます。
天神祭は千年以上の歴史があり、元禄時代には討ち入りを控えていた大石内蔵助の妻と息子も見物に訪れ、大坂(現大阪)にゆかりの深い井原西鶴や近松門左衛門たちも観覧に来ていたと言われています。
大阪天満宮といえば天神祭で有名ですが、もともとは天満宮が鎮座してから近い年月の天暦5年(951)の六月一日に水無月祓の神事として、社頭の浜から神鉾を流し、その流れ着いた浜辺に祭場を設け、同月二十五日に神霊を還して「
禊
」を行い、その際に神領民や崇敬者が船を仕立てて奉迎したことから起因したようです。これを「鉾流し神事」と読んで鉾流し神事が後年の「船渡御」を中心とする盛大な天神祭の起源になりました。
今現在の天神祭には鉾流し神事が行われていますが、それは昭和五年の天神祭のとき食満南北という人の提案により復活したものです。
『康富卿記』では、宝徳元年(1449年)の七月七日条に「天神祭礼」が記録されていますが、七夕祭は罪や穢れを
祓
い、それを形式に託して川に流すものでした。現在でも天神祭に行われる「鉾流神事」はその伝統を受け継ぐものと考えられます。ところが、戦国時代の吹田への疎開により祭儀が途絶えた頃に、天神信仰(天つ神信仰)が北辰・北斗などの星辰信仰の要素を持っていることが忘れられてしまい、江戸の初期の復興に際して、「名残の祓」としての性格を持って復興されたのではないかと見られています。
この名越の祓では、人形に穢れを託して川に流したり、茅の輪(茅輪)をくぐって穢れを祓う方法が一般的ですが、「天神祭」でも人形を流して茅の輪をくぐります。
豊作を祈り災厄を払うために始まった祭りですが、時代が流れるにつれ江戸を中心に神様をそっちのけにして人間が浮かれ出すものへと変化していきました。
ご神体のお神輿はもちろん、祭ばやしに乗せて山鉾、山車、楽車がねり、人形飾りを乗せた屋台など、何かしら意味はあるような様々なものが考えられるようになりました。
祭りが生み出したものといえば、美少女を踊らせる踊り屋台というものもあります。江戸の山王祭のものは、祭り行列が江戸城に繰り込むことになっていましたので、それが将軍の側室選びのイベントへと変化していきました。
将軍の側室になれることを願った玉の輿狙いの親たちはチャンスとばかり娘を踊り屋台に乗せるようにさせた人もいるそうです。
幕末になると、とある大工が娘に300両かけて着飾らせ踊り屋台に出した話がありますが、それが大いに的を外れてしまったがゆえに残った借金返済のために当の娘を吉原に売ったという話も残っています。
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