大阪天満宮の菅原道真について

菅原道真の石像

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菅原道真と天満宮

菅原道真
菅原道真

菅原道真(菅原道真公とも)とは、平安初期の人物で学者出身の政治家として宇多天皇からの信任を得て右大臣になるという異例の出世を重ねましたが、左大臣であった藤原 時平 ときひら の謀略によって901年(延喜元)に太宰府に左遷させられ、二年後に非業の死を遂げました。その死後に藤原時平の急死や清涼殿への落雷、 醍醐 だいご 天皇の死などの凶事が続発してしまい、これらを道真の祟りであると考えた朝廷は道真の官位を戻し「 天満大自在天神 てんまんだいじざいてんじん 」の称号が与えられるなどして名誉を回復した経緯があり、その後、その霊を天満宮(雷神が祀られた神社)に祀ったという言われています。このように貴人が怨念を持って亡くなると厄災をもたらすという考え方は古くからあり、その怨霊を鎮めるために、 御霊神社 ごりょうじんじゃ と呼ばれる鎮魂のための神社が各地に建立されていきました。
また、菅原道真のように神として祀られる人は、「もともと神だった存在であり、それが人の姿をかりてこの世に誕生し、しかるべき偉業をなした後、死して再び神の世界に帰り、神としてよみがえった」と考えられていました。このように、人の姿を借りて、 りに現れる「 権現 ごんげん 」という考え方は竹取物語などにも見られ、日本人の精神性にも深く関わるものでした。

道真は御霊だからといっても、ずっと恐怖の対象だったわけではなく、時代が下るに連れ学問を守護する神として崇め奉られるようになりました。

なお、大阪天満宮では菅原道真を「天神」として祀っていますが、これと天つ神(天照大神など)を祀る「天神社」は別物で、道真は日本の神話以降に祀られた新しい種類の神であるとも言えます。

大阪天満宮の「狛牛」

狛牛一匹目
狛牛二匹目
狛牛三匹目
大阪天満宮には三匹の狛牛がいます

天満宮や天神社に多くいる牛の石像ですが、これはご祭神である菅原道真の生まれが丑年丑月丑日丑刻であるなど、牛と深い関わりがあるので、天満宮の 神使 かみつかい は牛とされています。また、「 撫牛 なでうし 」というものが天満宮などにも必ずいますが、体の悪い部分と同じ部位を撫でると治るという「 撫物信仰 なでものしんこう 」の一つで、どの撫牛も厄除けの願いが込められ、ツルツルに光っています。

大阪天満宮の撫牛
大阪天満宮にも撫牛がいます
学問の神様の神社らしく頭が撫でられ光っています

大阪天満宮の「十二支方位盤」
- いない「鶏」と「鳳凰」の関係

酉の方位には鶏ではなく鳳凰がいる
酉の方位には「鶏」ではなく「鳳凰」になっています

通常、十二支をデザインした絵馬や土鈴などには「鶏」が酉の方位にいますが、大阪天満宮では鶏ではなく鳳凰がいます。初詣の授与品である絵馬などにも鶏はいません。これは菅原道真が、道明寺のおばさまとの早朝の別れを惜しみ

鳴けばこそ 別れをいそげ 鶏の音の 聞こえぬ里の 暁もがな

と詠まれたという故事によって、道真への配慮をはかったからと言われています。大阪天満宮では、今でも雉や鴨はお供えしますが、鶏はもちろん鶏卵さえお供には用いていません。

なぜ鶏はダメだったのか? -「鶏飼わず」伝承

これは諸説ありますが、鶏は「この世とあの世の境目に現れる・境界的な」「不吉な」ものと扱われたことから起因するものと思われます。上の詩は鶏が出立を促したから嫌われたと解釈できますがそうではなく、昔の人々が鶏に不吉なイメージを持っていたからであると考えられます。
なお、南方熊楠が上の詩である「鳴ければこそ」について、これは太田道灌の歌を真似た偽作と言っています。

それではなぜ鶏はダメなのか、というと、大阪天満宮の原型であった雷神信仰と関係していますが、中国ではその雷神は鶏が恐ろしい、とされていたようです。雷神=道真ですので、道真は鶏が恐ろしいとなったものとも考えられます。いずれにしても、天神信仰では、本来鶏を避けるべき存在でしたので鶏を十二支の酉として扱うことは避けるに越したことがなかったのでしょう。

鳳凰であるのはなぜか?

なぜ鶏ではなく鳳凰を酉の位置として指定されたのかという疑問が生じますが、それについては諸説あります。
鳳凰は孤高で俗界を超越しており、「鳳凰 群鶏 ぐんけい と食を争わず」というように「誇りが高く、孤高を守って世俗の人たちと行動を共にしないたとえ」として用いられ、転じて「鳳凰は、ニワトリの群れと食べ物を争い合うようなことはしない意」としても用いられています。
また、鳳凰である理由としては大阪天満宮の創祀伝承の中にありますが、大阪天満宮が今でも大将軍社を境内社として祀っています。この大将軍とは、陰陽道で言う西方の星、太白の精で、四方を正すことを司り、方除の神とされています。そして、大阪市立美術館が蔵する「五星二十八宿神形図巻」には、鳳凰に乗った太白星(金星)が描かれています。また、大将軍社は、太白星を祀る以前は、北辰(北極星や北斗七星)の信仰を中心とする星辰崇拝の拠点でした(事実、大阪天満宮の夏祭り「天神祭」ももともとは七夕祭の日である七月七日に行われていました)。
最近になり、中山理氏によって、空想の鳥である「鳳凰」の姿は、古代の中国では鶏をモデルにされていることが明らかになりました。
大阪天満宮において、鶏の代わりに鳳凰が選ばれたときにはすでに「鶏飼わず」の本来の意味が忘れさられてしまいましたが、むしろ鳳凰が鶏に似ていることから察するに、鶏とのギャップが少ないという点においては都合が良かったのかもしれません。

絵馬の酉も鳳凰
絵馬の酉も鳳凰です

菅原道真と道教

以下の点から考察するに、天満宮と菅原道真の関係は道教と切っても切り離せない関係にあります。
① 斉衝三年(856年)に河内国交野に営まれた「郊天の礼(天神の祭)」に、道真の父是善が祭使となっています。これは道教思想に基づく「 昊天 こうてん 上帝の祭」であること。
② 「 道真 みちざね 」という名前には、道教の「神格を表徴」あるいは「究極の真理を表示」する「 道真 どうしん 」に通じる名前であること。
③ 寛平元年(889年)に、道真は「 庚申 こうしん 夜述所懐」の詩を詠んでいますが、庚申待も道教の 三尸 さんし (道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられた虫)説に由来していること。
④ 昌泰四年(901年)の道真の左遷には、同年が陰陽道の 讖緯説 しんいせつ にいう 辛酉 しんゆう 革命( 辛酉 かのととり の年には大きな社会変革が起こるという説)の年であったことが大きく関わっていたこと。
⑤ 当時の人々が道真の死後に相次いだ災異現象を、「天神が人君に 譴告 けんこく (罪あることを知らせる)する」という道教思想の影響により理解したこと、などからも理解できます。

道教の「天神の譴告」は主に権威のある人に顕著な意味を持ちますが、権威のない一般的な人に対しても道真の死はあまりにも大きな意味を持ちました。
道真の死後、疫病や 早跋 かんばつ が流行し、翌々年の延喜五年に彗星が現れて人々を畏怖させたことなどが、疫病神や星辰信仰の側面を持つ大将信仰と、道真が結びつく伏線となっていたことも十分に考えられます。さらに延長八年(930年)の清涼殿への落雷があまりにも衝撃的だったために、そこから雷神信仰とも結びつくようになりました。
道真が天神として祀られる背景には、雷神=天神の連想もあったと思われますが、より本質的には、道教思想の「天神の譴告」の介在があったからだと言えます。道真は「譴告」を下す「天神」となるとともに、怨霊信仰や雷神信仰としての側面をも展開しながら広く浸透してきました。

日本の文化に大きな影響を与えた儒教と道教を比較すると、儒教は「国家統治原理」として律令制の国家組織を指導していましたが、道教は「個人的信仰」として八百万の神という概念を素直に受け入れられる日本人の中に広く浸透し、汎神論的な自然神信仰を整理し秩序付けたと考えられています。

道教のイメージ
菅原道真と道教は深い関わりがありました

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