大阪について / 写真館・フォトスタジオについて
大阪の概要
大阪(おおさか : Osaka)は、日本にある近畿地方(別名、関西地方)の中部にある地名です。 人口は878万人と、東京についで多くの人が住んでいる都市でもあります(大阪府/大阪府の毎月推計人口)。
律令制度(りつりょうせいど・律令とは「古代国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定」) に基づいて支配を行った古代統一国家では摂津国(せっつこく・現在の大阪府北西部と兵庫県南東部の旧国名)の範囲にあって、 近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都・水都としての特徴や歴史がある都市です。
現在の「大阪」は、近畿地方に位置する大阪府や、 その府庁所在地であり西日本最大の都市・大阪市を指し、広義では大阪市を中心とする京阪神 (近畿地方、大阪都市圏〈阪神都市圏〉、京都、大阪、神戸。また、その地方一帯、近畿圏など)を漠然と総称することにも使われることもあります。
大阪の地名と沿革
「大坂」という地名は、上町台地(大阪市内を南北に走る台地で,大和(やまと)川より北に向かって幅2〜3km,長さ12kmにわたって岬状に突出し,大阪平野を大阪海岸低地と河内低地に二分する)場所の菊部付近を指し、 摂津国東成郡(現在の大阪市の中東部)に属していました。
「大坂」という漢字の地名に関する最古の記録は、明応5年(1496年)、蓮如によって書かれた手紙の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂トイフ所在ハ、往古ヨリイカナル約束ノアリケルニヤ」との記載です。 もともと、蓮如が「大坂」と呼んだ一帯は、古くは浪速(なにわ)などが地域の名称として用いられていましたが、蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(石山本願寺)を建立し、その勢力を周辺に伸ばした結果、大坂という呼称が定着しました。
蓮如以前の「大坂」は「ヲサカ」と発音されていて、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られますが、連著らは大坂御坊の建立に伴い、良い結果が得られるよう祝いの言葉として「小坂」を「大坂」と改名しました。 ですので、「大坂」の語源は「大きな坂があったから」という意味ではないようです。
この蓮如以降、大坂は「おおざか」と読むようになりました。なお、江戸時代には商人が海難事故によりロシア帝国に漂流した際、ロシア人には「おおざか」が「ウザカ」と聞こえたようで、「おおざか」の「さ」には濁点がついていたことが想起されます。
江戸時代中期になると、「大坂」の「坂」の字が「土に反る」と分解できることから、死を連想させる結果となり、現代の「大阪」とも書くようになりました。そして、明治時代には、「大坂」から「大阪」へ定着したようです。
大阪の歴史
大坂は港湾都市であり国内流通の中心でした。律令制では摂津国の範囲で、江戸時代には現在の大阪市中央部をメインのの区域とする大都市であり、現代の東京ではなく大坂が日本経済の中心だったため、天下の台所とも呼ばれるようになりました。
Q.「大坂」以前
「大坂」があった上町台地は、「難波潟(なにわがた・葦が広がった湿地)」に突き出した半島状の陸地で、浪速(なみはや、なにわ)、難波(なにわ)、浪花(なにわ)、浪華(なにわ)などと「なにわ」を複数の漢字で書き表されてきました。
ヤマト政権になると、遣隋使や検討が派遣させたり、外国人を迎えて接待したりした住吉津や難波津(なにわのつ)が設置され、運河である「堀江」が築かれました。
奈良時代にかけてこの難波の地が重要視されたのは、 (1)大阪湾が西日本の交通の要である瀬戸内海の東端に位置しており、 (2)難波高津宮、難波宮、以後の飛鳥古京・藤原京・平城京などから最も近い港湾であることによります。
難波津については、平安時代に淀川水系を利用し、平安京が恒久的な都となったことから、源氏渡辺氏によって難波津から渡辺津と名前を変え、 瀬戸内海から淀川を通じて京都に通じる内港な水運の要衝として栄えたほか、北から淀川を渡り南の四天王寺、さらには熊野へと続く陸上交通熊野街道の起点な要衝としても栄えました。
Q.「大坂」の移り変わり
織田信長と本願寺の間に戦われた石山合戦後に、大坂本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築城し、 城下町に大名の屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて政治・経済の中心都市としました。 それから、安土桃山時代のうちの豊臣政権期を指して「大坂時代」と呼ぶ人もいたようです。
豊臣秀吉が滅亡した大阪夏の陣によって大阪は荒廃しましたが、江戸幕府は大阪を直轄地として、西国への要として大坂城を再建しました。 その一方、海路が厳しい江戸の町よりも、昔からある海運の利便性を考慮しさらに河川の改修や堀を作り上げて、いろいろな藩も倉庫兼家屋となる蔵屋敷を置きました。 その結果、水路の発達に伴い、橋が非常に多く作られ「八百八橋(はっぴゃくやばし)」と多数ある橋と運河がある町となりました。
その時代の大坂では、江戸幕府から派遣された大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう・大坂に置かれた江戸幕府遠国(おんごく)奉行の一つ)支配のもとに「北組」・「南組」・「天満組」の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。 北組・南組は現在の中央区の本町通を境に分かれ、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯である。 ちなみに、天満は元和年間頃まで大坂とは別の町とみなされていました。
大坂から大阪への変遷
上述しましたが、江戸時代中期になると不吉とされた「大坂」という文字と「大坂」が両方利用され、明治維新後になると、大坂三郷に大阪府を置きました。 この結果、「大坂」という文字は使われなくなりました。
1869年(明治2年)、三郷から東・西・南・北の四大組に再編されて、後に大区・小区制(だいくしょうくせい・廃藩置県後政府によって新しく定められた地方制度)が施行されたことにより、 第1〜4大区になり、さらに1879年(明治12年)になると郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう・大区・小区制を廃止し、以前の郡・町村を行政区画として復活(区は大都市)、町村を自治団体とし、 戸長の公選制、区町村会の設置(80年4月の区町村会法で整備)を認めた。しかし郡は行政機関とされ、官選の郡長が町村を監督した)が施行された結果、再度、東・西・南・北の4区になりました。
1889年(明治22年)、市制(しせい・地方公共団体としての市の構成、組織、権能、監督などを定めた法律)施行に伴い、大阪府管内の大阪市となりました。
一時、首府である東京府東京市(現在の東京都区分の場所)の人口を追い抜き、日本で最大の人口の都市となりましたが(大大阪時代)、 東京府東京市が周囲の町や村を合併することにとよって、7年で再び大阪市は人口で抜かれる結果となりました。
大阪の文化
食文化
豊臣秀吉時代以降、大坂は「天下の台所」と言われるほど、大坂近郊だけでなく瀬戸内海の海産物を含め全国各地から食材が集まる事になった結果、 「大阪の食い倒れ(大阪の人は食べ物に、財産を使い果たすほど金をかける、という意味)」という言葉が生まれました。
ちなみに、懐石料理やしゃぶしゃぶ、うどんすき、割烹などは大阪が発症の地とされており、「粉もん(たこ焼きやお好み焼き、イカ焼き、串カツ)」なども 今だけでなく過去でも楽しんでいたようです。
鶴橋などではコリアンタウンがあることから焼き肉店が数多く、日本でホルモン焼きが広まった場所でもあります。さらにインスタントラーメンや酢昆布その他駄菓子等、様々な料理・食品が大阪発といったこともあります。 また、恵方巻きも大阪発の行事です。
芸能
大阪は「商業の町として、円滑なコミュニケーション術が必要である」といった観点から、以下のような芸能文化を発祥していきました。
- 人形浄瑠璃
- 上方歌舞伎
- 上方落語
- 漫才
- 吉本新喜劇・松竹新喜劇
大阪の写真館・フォトスタジオの歴史
日本での営業写真館・フォトスタジオの歴史
日本国内で最初の営業写真館・フォトスタジオは、幕末の長崎で上野彦馬が開業した「上野撮影局」とされます。 写真が一般に広まろうとしていた明治初期の頃、カメラは木製暗箱と呼ばれる大きなサイズのもので、固定する為の三脚は必須でした。 職業として写真を撮る者は「自店に撮影スタジオを用意し、写真の撮影から現像・プリントまで一式を行う」ことが必須で、これが昭和を通じての営業写真館・フォトスタジオの主流となりました。
営業写真
「営業写真」という名称はいつ頃から使われていたかわ分かっていませんが、明治末期から大正時代に写真界に発生したアマチュアが発生し、写真を職業としないアマチュアに対して言われたものだと言われています。 当時の写真の仕事は、科学写真、医学写真、商業写真他、応用ができる範囲での撮影と数多くあり、広範囲なものでした。そういった写真を撮影することを営業写真という言葉が使われ、職業化していきました。
営業写真家の写真技術研究会や講習会
営業写真家は商売繁栄のために、写真やカメラの技術の向上と啓蒙が強化され始め、写真技術研究会や講習会等が全国各地に開催されはじめました。 この研究会や講習会は全国各地に結成されていた写真師団体の年一回の総会に参加した営業写真家の勉強の会として開催されていましたが、研究会や講習会の内容によって総会への参加人員数が増えたり減ったりすることがありました。 それに伴い、写真師会の会長や役員は、年一回開催される総会の時期の半年位前になると、上京してメーカーや東京の著名営業写真家を訪問して、講師派遣の依頼がされていたようです。時には会員の希望で演題は決定されたこともありました。 結果、会長や役員の参加会員への奉仕的な努力は報われ、一般営業写真家の写真への知識や技術は急速に向上しました。メーカーとしては商品PRのための研究会や講習会でしたが、内容は関係なく、営業写真家を対象とする写真学校のようなもので、写真技術向上と啓蒙が行われました。 講演の題目はいろいろありましたが、オーソ乾板、パンクロ乾板、赤外乾板等の性能や、現像処理する方法や、フィルターの種類やその性能等、また採光法、修整法、彩色技法、写真芸術、写真館・フォトスタジオの経営法など多くあったようです。当時の日本で既成化さらた営業写真家による団体として、その名も古く内容も充実していたのは「九州写真師会」と「大阪写真師協会」でした。
大阪府写真師協会
大阪府写真師協会は九州写真師会におとらず古い歴史が残されています。大阪写真師会は明治31年に創立(初代会長は葛城思風氏)されました。 戦後は関西写真家連合協会が設立され、隆盛したようです。 関西写真家連合協会は、関西や中国地方、四国と拡大してゆき、当会では昭和4年に夏期写真講習会第一回が開かれて現在の関西写真家連合協会の運営となって、日本の営業写真界の著名なる写真講習会となっていきました。 九州写真師会と大阪写真師協会とはその結成も古く、年々会の主催によって開催される写真技術の啓蒙のために、研究会や講習会は会長はじめ役員の奉仕的力により会の内容も充実し同時に参加する人員も増大し、一般営業写真家たちの唯一の勉強の場となりました。また、メーカー関係者も後援者となり充実した研究会の企画に積極的に働きかけていました。 こうして全国各地に写真師の団体は結成され毎年六月七月頃には総会や写真研究が全国に開催されるようになりました。
戦後における営業写真館・フォトスタジオの企業化
戦後一般営業写真家は戦前と同様、婚礼や見合い、七五三、学校の入学・卒業等に関した記録的写真撮影を仕事としてきましたが、戦前に繁栄をきわめていた軍隊関係の仕事が完全に消失したので写真の需要は急に減少するものかと一時は思われました。 ですが、戦後経済高度成長の影響もあって特に婚礼関係の行事は戦前に増して豪華的に行われる傾向が強かったので、婚礼写真撮影の需要はかなり増大してゆき、婚礼写真関係の営業写真家は全国に増大していき、かなりの繁栄をしていきました。また、婚礼は戦前主として神社等で行われていましたが、戦後はホテルや公営私営の会館、レストラン、デパート等の施設に婚礼関係の衣裳、美容、挙式、写真、披露等の部門が整備されることなり、この写真部の撮影担当をする営業写真家やこの種の写真部を30ヵ所以上にも及ぶ経営により婚礼写真の撮影製作一切を企業化した極めて大規模な営業写真家もあります。また、大資本の投入によって前記の如き婚礼関係部門の一切を企画した会館の経営等、カメラ販売関係、ホテル、レストラン、喫茶店等の多角的経営の著名なる実業家的営業写真家もあります。このような傾向はその規模の大小の差はありますが、全国的のものとなっていきました。
大阪のお宮参りや七五三、証明写真、家族写真の安い記念撮影は
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- スタジオアージュスタッフ一同