大阪の写真館スタジオアージュ

 

大阪天満宮について

大阪天満宮 表門

大阪のお宮参りや七五三の
家族写真・記念写真の撮影は

大阪のお宮参り七五三の家族写真・記念写真ならスタジオアージュにおまかせ
7,500件以上の実績を持つスタジオアージュ。無料着物レンタルやメイキングDVDだけでなく、データのお渡しも。

多くの方に愛される写真スタジオになることを目指しています。

大阪天満宮とその歴史

大阪天満宮はもともと漁師民によって、道教・陰陽道の星辰信仰(星に象徴的な意味を付与し、尊崇する信仰)に則って 創祀 そうし され、「天満天神」「 浪華 なにわ 菅廟 かんびょう (「菅廟」は菅原道真公を まつ る建物の意味)」「中島天満宮」 「摂津南 中島惣社 なかじまそうしゃ 天満宮」「天満天神社」「天満神社」「天満宮」「天満社」「天神宮」など、時代により呼び方は変化していきました。 今では地元大阪の市民からは「天満の天神さん」と親しみを込めて言われています。
大阪天満宮は平安城の北の方にあった北野天満宮と長岡の天満宮にならって創祀されたものと見られています。

大将軍の社
大将軍社の石碑。
菅原道真が立ち寄ったことが書かれています。

なぜ神社ではなく、菅原道真を祀っている「大阪天満宮」と表している理由は諸説ありますが、 ① 皇白鎮護の神として 奉斎 ほうさい されていた「大将軍の森」に菅原道真が大宰府に向かう途中に参拝したことから由来するようです。「大将軍の森」は後に「天神の森」と呼ばれるようになりました。つまり、菅原道真が、太宰府への船を待っている間に、摂津南中島(現大阪天満宮)の大将軍社に参拝して、お衣装軍の森から乗船した由縁から、大阪天満宮が 鎮祭 ちんさい され、大将軍社はその境内社になったようです。
また、別の説として② 大将軍社が鎮座していましたが、村上天皇の 勅願 ちょくがん によって創祀されたとされています。すなわち菅原道真は出てきませんが、一晩のうちに「松七本」が生えたことが重要な鍵となり、 ③ 一夜にして松七本が生えたことに対して、菅原道真が難波の梅を慕って、松の梢に霊光を発したという話もあり、そこから「難波梅」と「菅原の神霊」の要素が加味されたことも考えられます。

松の木
大阪天満宮近くには松の木が茂っていました

Q.「七本の松」

また、先ほど「大将軍の森(天神の森)」と称しましたが、この森も松林であったものと見られています。
北野天満宮の創祀を伝えている「皇代記」にも「一夜にして数千本の松が生えた地に、天神が勧請された」というものですが、これも「松」に対する言及があります。当時の人々の間では「松」は菅原道真の化身であった、という見解もあり、それから松七本が一晩に生えたことは神託があったためではないかということから天満宮の由縁になっているものと考えられます。
神社にとって、境内の外にある森林は単なる景観ではなく、神々が依り代にするものでもあったとされています(余談ですが、大阪天満宮近くにある「南森町」という地域も「森」と書かれていることから察するに森林地域であったようです)。平安時代末期に照葉樹を用材伐採や燃料採集、焼き畑耕作などに用いられることによって大いに減り、照葉樹から針葉樹への転換が進んだものと見られます。
この時代をさかいに「松」が一般的になり、天神信仰は針葉樹→松への信仰と関わりながら成立していったようです。話には出していませんが、林屋辰三郎氏は天神信仰と「雷神信仰」「殺牛儀礼」との関わりについて論証しましたが、「松樹信仰」も天神信仰の一つの要素となっていたようです。

また、なぜ「七本」かとなるのですが、この「七」は髙島幸次氏によると「北斗七星」の光とも考えられるとも述べています。大阪天満宮の近くには「明星池」だけでなく、「七夕池」「星合池」という3つの池がありました。七本松が北斗七星の隠喩もしくは比喩であれば、北野天満宮の「千本松」は、満点に輝く無数の星ということになると考えられます。この点からも大阪天満宮は星辰信仰の影響を受けていたともとらえられます。

ご存じの方もおられるでしょうが、菅原道真は梅が好きだったのではなかったか? という疑問も生じます。
これは鎌倉時代に「菅公愛梅説」が流布していたからだと言われ、それに伴い平安時代に天神信仰と深い関わりがあった「松」や「神の依代」があったことも忘れていったようです。
ですが、12,000社ある天満宮には必ずと言っていいほど梅が植えられています。大阪天満宮では約500本、北野天満宮は50種1,500本の梅が咲くことで有名です。

大阪天満宮盆梅展の様子
大阪天満宮では2月〜3月にかけて盆梅展が開催されます

戦国・安土桃山・江戸時代の大阪天満宮

戦国時代の大阪天満宮

応仁の乱の後の大阪天満宮は、当時有数の連歌のサロンであったとされています。というのも、菅原道真は「文学の神」だけでなく「連歌の神」としても崇敬の対象になっていき、中世には大阪天満宮だけでなく、北野天満宮・太宰府天満宮・近江の菅原神社・大和の染田天満宮・長谷の予喜天神など、各地の天満宮において連歌会が行われていたようです。

安土桃山時代の大阪天満宮

石山本願寺と織田信長の戦が起こった際に、大阪天満宮は石山本願寺側につきましたが負けてしまい、大阪天満宮の神領は信長にすべて取り上げられ、神宝、古記録類も消失してしまいました。取り上げられた神領は高2500貫に及び、天満まわり七ケ村、淀川面までも大阪天満宮の領地であったとされています。
しかし、豊臣秀吉の時代になると、秀吉の側近が大阪天満宮の社僧を務め、連歌会を催し、大阪天満宮の復興に尽力しました。面積は長柄村から福島村までの間の五ケ庄を寄進されたと言われています。

江戸時代初期の大阪天満宮

徳川家康が江戸に幕府を開いた後も、大坂(当時の大阪の名称)では戦乱の余風は収まることなく、慶長十九年(1614年)十月には「大坂冬の陣」が起こりました。このときに起こった一揆に「中島一揆」というものがありましたが、当時摂津吹田村にいた橋本清大夫らが一揆の懐柔を謀りそれに成功しました。中島の農民たちは城を退き、神崎川を渡り吹田に移りました。 なお、この時の大阪天満宮は大阪城に籠城していましたが、それは秀吉に懇意にされていたからだと言われています。しかし、戦局は思わしくなく翌年(慶長二十年・1615年)四月、大坂夏の陣の火蓋が切って落とされると、中島一帯の農民は、戦場となるのを免れた吹田方面へ避難し、大阪天満宮も神輿をはじめ神社内のすべての人まで残らずに吹田村の橋本邸(現吹田市南高浜町)に避難しました(環座)。

環座先の吹田から現在の大阪天満宮の場所に戻った時期(ご神体の環座)は、菅原道真の生誕800年に当たる寛永21年(1644年)と言われています。

「神社」と「天満宮」の違いとは

神社産土神 うぶすながみ 天神地祇 てんじんちぎ 、皇室や氏族の祖神、国家に功労のあった者、偉人・義士などの霊を神として祀った所とされ、別の言い方では「やしろ」「おみや」「じんしゃ」と読みます。言うなれば神様を祀る聖域のことを指しています。

天満宮は学問の神さまとして名高い菅原道真を祀神とする神社の総称で、菅原道真以前は雷神( あま つ神様すなわち天神さまの一人)を祀る神社でした。その雷神と菅原道真の祟りが結び付けられ、後に学問の神様へと昇華され奉られるようになりました。*天つ神とは「天上界にいる神。また、天から下った神」様のことを指します。対して 国つ神 くにつかみ は日本の国土に土着する神様で、地神・ 地祇 ちぎ とも呼ばれています。

天満宮と称する大阪天満宮は有名な神社の一つと言われています。

大阪天満宮裏口
スタジオアージュ近くにある大阪天満宮裏門。
一部の鳥居は朱色ではありません。
笠木 かさぎ が沿っているので「明神系」と言われています。
大阪天満宮にある朱色の鳥居
大阪天満宮にある朱色の鳥居の一例

大阪天満宮の「狛牛」

天満宮や天神社に多くいる牛の石像ですが、これはご祭神である菅原道真の生まれが丑年丑月丑日丑刻であるなど、牛と深い関わりがあるので、天満宮の 神使 かみつかい は牛とされています。また、「 撫牛 なでうし 」というものが天満宮などにも必ずいますが、体の悪い部分と同じ部位を撫でると治るという「 撫物信仰 なでものしんこう 」の一つで、どの撫牛も厄除けの願いが込められ、ツルツルに光っています。

大阪天満宮の撫牛
大阪天満宮にも撫牛がいます
学問の神様の神社らしく頭が撫でられ光っています

大阪天満宮の「十二支方位盤」
- いない「鶏」と「鳳凰」の関係

酉の方位には鶏ではなく鳳凰がいる
酉の方位には「鶏」ではなく「鳳凰」になっています

通常、十二支をデザインした絵馬や土鈴などには「鶏」が酉の方位にいますが、大阪天満宮では鶏ではなく鳳凰がいます。初詣の授与品である絵馬などにも鶏はいません。これは菅原道真が、道明寺のおばさまとの早朝の別れを惜しみ

鳴けばこそ 別れをいそげ 鶏の音の 聞こえぬ里の 暁もがな

と詠まれたという故事によって、道真への配慮をはかったからと言われています。大阪天満宮では、今でも雉や鴨はお供えしますが、鶏はもちろん鶏卵さえお供には用いていません。

なぜ鶏はダメだったのか? -「鶏飼わず」伝承

これは諸説ありますが、鶏は「この世とあの世の境目に現れる・境界的な」「不吉な」ものと扱われたことから起因するものと思われます。上の詩は鶏が出立を促したから嫌われたと解釈できますがそうではなく、昔の人々が鶏に不吉なイメージを持っていたからであると考えられます。
なお、南方熊楠が上の詩である「鳴ければこそ」について、これは太田道灌の歌を真似た偽作と言っています。

それではなぜ鶏はダメなのか、というと、大阪天満宮の原型であった雷神信仰と関係していますが、中国ではその雷神は鶏が恐ろしい、とされていたようです。雷神=道真ですので、道真は鶏が恐ろしいとなったものとも考えられます。いずれにしても、天神信仰では、本来鶏を避けるべき存在でしたので鶏を十二支の酉として扱うことは避けるに越したことがなかったのでしょう。

鳳凰であるのはなぜか?

なぜ鶏ではなく鳳凰を酉の位置として指定されたのかという疑問が生じますが、それについては諸説あります。
鳳凰は孤高で俗界を超越しており、「鳳凰 群鶏 ぐんけい と食を争わず」というように「誇りが高く、孤高を守って世俗の人たちと行動を共にしないたとえ」として用いられ、転じて「鳳凰は、ニワトリの群れと食べ物を争い合うようなことはしない意」としても用いられています。
また、鳳凰である理由としては大阪天満宮の創祀伝承の中にありますが、大阪天満宮が今でも大将軍社を境内社として祀っています。この大将軍とは、陰陽道で言う西方の星、太白の精で、四方を正すことを司り、方除の神とされています。そして、大阪市立美術館が蔵する「五星二十八宿神形図巻」には、鳳凰に乗った太白星(金星)が描かれています。また、大将軍社は、太白星を祀る以前は、北辰(北極星や北斗七星)の信仰を中心とする星辰崇拝の拠点でした(事実、大阪天満宮の夏祭り「天神祭」ももともとは七夕祭の日である七月七日に行われていました)。
最近になり、中山理氏によって、空想の鳥である「鳳凰」の姿は、古代の中国では鶏をモデルにされていることが明らかになりました。
大阪天満宮において、鶏の代わりに鳳凰が選ばれたときにはすでに「鶏飼わず」の本来の意味が忘れさられてしまいましたが、むしろ鳳凰が鶏に似ていることから察するに、鶏とのギャップが少ないという点においては都合が良かったのかもしれません。

絵馬の酉も鳳凰
絵馬の酉も鳳凰です

阪神・淡路大震災と
「鳥居の中のタイムカプセル」

大阪天満宮の表参道に立つ、金属的な輝きを放つ大鳥居。 一見するとモダンな印象を与えるこの鳥居ですが、実は1995年の阪神・淡路大震災と、そこから立ち上がった人々の「記憶」を封じ込めた、特別なモニュメントであることをご存じでしょうか。

今回は、大阪天満宮の復興のシンボルである、一部「ステンレス製鳥居」と、その中に隠されたタイムカプセルの物語をご紹介します。

1. 震災による石鳥居の崩壊

1995年(平成7年)1月17日、近畿圏を襲った阪神・淡路大震災は、大阪天満宮にも甚大な被害をもたらしました。激しい揺れにより、かつてそこにあった石造りの鳥居が崩壊してしまったのです。

震災後、復興の証として新たに造立されることになった鳥居には、地震に強く、耐久性に優れたステンレスが素材として選ばれました。伝統的な神社建築の中に現れた金属の鳥居は、震災の教訓を形にしたものでもあったのです。

2. 北側の柱に眠る「象印のマホービン」

この新しいステンレス鳥居の北側柱の最上部には、震災の記憶を後世に伝えるための「タイムカプセル」が封入されています。

興味深いのは、その容器です。 タイムカプセルとして使用されたのは、象印マホービン株式会社から奉納された「ステンレス真空調理鍋(SNB-B45)」でした。 耐久性と密閉性に優れた魔法瓶の技術が、大切な記憶を守るカプセルとして採用されたのです。

3. 中身と開封予定日:107年後の未来へ

この魔法瓶の中には、以下のものが詰められています。

  • 阪神・淡路大震災の記事が掲載された新聞
  • 大阪天満宮の古い境内図(版画)
  • 関連図書

そして、このカプセルが再び日の目を見るのは、遥か未来のことです。 開封予定日は、西暦2102年。 これは、1995年の納入から実に107年後にあたります。

なぜ2102年なのか? それは、この年が菅原道真公(天神様)に関わる「大阪天満宮 御神退一千二百年祭」という大きな節目の年にあたるからです。

4. 伝統を超えた「強い意志」

本来、伝統的な神道の儀礼の中に「タイムカプセルを奉納する」という習慣はありません。 それでもこのプロジェクトが実行された背景には、未曾有の大災害を経験した人々による、「震災の記憶や資料を風化させず、後世へ継承したい」という極めて強い意志がありました。

大阪天満宮を訪れた際は、ぜひこのステンレスの鳥居を見上げてみてください。その柱の頂上には、震災を乗り越えた人々の想いと、100年後の未来へ宛てたメッセージが、今も静かに眠っています。

参考文献

  • 坂口英伸『モニュメントの20世紀: タイムカプセルが伝える〈記録〉と〈記憶〉 (シリーズ近代美術のゆくえ)』

文学・芸術のサロンとしての大阪天満宮
談林俳諧から近松まで

大阪天満宮といえば「学問の神様・菅原道真」を祀る神社として有名ですが、歴史を紐解くと、そこは単に合格祈願をするだけの場所ではありませんでした。

中世から近世にかけて、大阪天満宮は当時の最先端を行く詩人、作家、芸術家たちが集う「巨大な文化サロン」としての機能を持っていたのです。

今回は、連歌の巨匠・宗祇から、俳諧の革新者・西山宗因、そして浄瑠璃の近松門左衛門に至るまで、大阪天満宮を舞台に花開いた「知と美のネットワーク」についてご紹介します。

1. 連歌の聖地としての基盤

大阪天満宮が文学の拠点としての性格を強めたのは、室町時代のことです。 祭神である菅原道真は、生前優れた詩人であったことから「学問の神」であると同時に「連歌(れんが)の神」としても崇敬されていました。

宗祇による千句の奉納

文亀2年(1502年)、連歌の最高権威であった宗祇(そうぎ)が大阪天満宮を訪れました。彼は菅公六百年祭にあたり、千句の連歌(千百発句)を献上し、「天満法楽」を行いました。 境内には「連歌所(れんがどころ)」が設けられ、戦国時代の動乱期にも、武将や公家、僧侶たちが身分を超えて座を囲み、歌を詠み合う文化が根付いていました。

2. 俳諧革命の震源地:「談林派」と西山宗因

江戸時代に入ると、この「連歌の聖地」は、より自由で庶民的な新しい文芸「俳諧(はいかい)」の爆心地となります。その中心にいたのが、西山宗因(にしやまそういん)です。

天満宮の神官・宗因

西山宗因は、大阪天満宮の連歌所の宗匠として、境内の北側にあった「向栄庵(こうえいあん)」に住んでいました。彼は伝統的な連歌の形式を守りつつも、より滑稽で自由奔放な表現を用いる「俳諧」の世界へ踏み出します。

談林俳諧の誕生

宗因が提唱したスタイルは「談林(だんりん)派」と呼ばれ、それまでの堅苦しいルールを打破するものでした。

あながちに俳諧といふ事はなし、ただ心を慰むるばかりなり
(俳諧に難しい理屈はない、ただ心を慰めるものだ)

この宗因の自由な精神に惹かれ、大阪の富裕な町人たちがこぞって彼のもとに集まりました。井原西鶴もその弟子の一人であり、彼らは天満宮を拠点に、斬新な作品を次々と世に送り出しました。

松尾芭蕉も仰いだ「中興開山」

あのおくのほそ道の松尾芭蕉も、宗因を「俳諧の中興開山」と呼び、深く尊敬していました。もし宗因がいなければ、芭蕉の俳句も生まれなかったと言われるほどです。 現在、天満宮の境内には宗因の句碑「浪花津にさく夜の雨や花の春」と、向栄庵の跡を示す碑が残されています。

3. 近松門左衛門と「人形」の競演

元禄文化が花開くと、大阪天満宮は演劇文化とも深く結びつきます。その象徴が、日本のシェイクスピアとも呼ばれる近松門左衛門です。

境内で幕を開ける物語

近松の代表作『曽根崎心中』の発端は、大阪天満宮の境内です。 「この世のなごり、夜もなごり」の道行文(みちゆきぶん)で知られるこの物語は、賑やかな神社の境内での生玉の徳兵衛とお初との出会い、そして九平次との諍いから始まります。当時の天満宮が、人々の生活と喜怒哀楽が交差する、まさに「劇的な空間」であったことがわかります。

祭りに登場する「スターたち」

天神祭のハイライトである船渡御(ふなとぎょ)では、氏子たちが趣向を凝らした「御迎人形(おむかえにんぎょう)」を船に飾りました。 これらの人形の多くは、当時人気を博した歌舞伎や浄瑠璃の登場人物をモデルにしていました。

  • 『日本振袖始』の素戔嗚尊(すさのおのみこと)
  • 『鎮西八郎為朝』の鎮西八郎
  • 『鎌倉三代記』の佐々木高綱

祭りの日、大川を行き交う船の上では、近松らの作品の主人公たちが「人形」となって現れ、見物客(観客)を楽しませました。これは、神社という「聖なる空間」と、演劇という「俗なる娯楽」が、高いレベルで融合していたことを示しています。

4. まとめに代えて

大阪天満宮には、江戸時代の祭りの様子を克明に記録した『天神祭十二時』などの書物も所蔵されており、当時の文化的熱狂を今に伝えています。

大阪天満宮は、神を祀る場所であると同時に、連歌師が技を競い、俳人たちが新しい表現に挑み、劇作家の物語が民衆の喝采を浴びる、総合芸術のターミナルでした。 「学問の神様」にお参りする際は、かつてここで言葉と芸術を戦わせたクリエイターたちの熱気にも、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

参考文献

  • 高島幸次『大阪天満宮と天神祭』創元社
  • 森川昭『談林十百韻』(新日本古典文学大系第69巻)
  • 山崎美成『世事百談』

「嘘」を「誠」に変える鳥?
大阪天満宮の「鷽替え(うそかえ)」神事と鳥の秘密

大阪天満宮では、毎年1月に「鷽替え(うそかえ)神事」が行われます。 「うそ」と聞くと「嘘(lie)」を思い浮かべますが、これは「鷽(Bullfinch)」という鳥のこと。

なぜ神社で「ウソ」を交換するのか? 今回は、このユニークな神事の由来と、大阪天満宮に秘められた少し切ない「鳥」のエピソードをご紹介します。

1. 鷽替え(うそかえ)神事とは?

鷽替えは、参拝者が木彫りの「鷽(うそ)」という鳥の人形を互いに交換し合う行事です。

由来と意味

この神事の発祥は、菅原道真公の墓所である福岡県の太宰府天満宮です。 その起源には諸説ありますが、一般的には以下の2つの意味が込められています。

  1. 「嘘」を「真(まこと)」に替える: 「鷽(うそ)」という言葉を「嘘(うそ)」にかけ、「知らず知らずのうちについた嘘や、前年にあった悪いこと(凶)を嘘にして、吉(良いこと)に取り替える」という願いが込められています。
  2. 道真公の使い: 鷽は、菅原道真公(天神様)が愛した鳥、あるいはハチの大群から道真公を守った鳥として、「天神様の使い」とされています。

儀式の流れ

太宰府天満宮では1月7日の夕方に行われますが、江戸時代後期になるとこの風習が大阪や江戸にも伝わり、大阪天満宮や亀戸天神など全国の天満宮で行われるようになりました。 人々は「替えましょ、替えましょ」と声を掛け合いながら木彫りの鷽を交換し、その中に神社から出された「金の鷽」が含まれていると、吉兆(幸運の証)としてお神酒が振る舞われることもあります。交換した鷽は神棚に祀り、火難除けのお守りともされます。

2. 大阪天満宮と「鶏(ニワトリ)」の切ない関係

「鷽(うそ)」が天神様の使いとして愛される一方で、大阪天満宮には「飼ってはいけない鳥」が存在します。 それが「鶏(ニワトリ)」です。

道明寺での別れと鶏の鳴き声

これには、菅原道真公の左遷にまつわる悲しい伝説が関係しています。 道真公が大宰府へ向かう途中、河内の道明寺にいる伯母・覚寿尼(かくじゅに)を訪ねて別れを惜しんでいました。 もっと長く話していたいと願っていましたが、鶏の鳴き声(一番鶏)によって夜明けを知らされ、泣く泣く出発することになったのです。

「鳴けばこそ別れを急ぐ鳥の音の 聞こえぬ里の暁もがな」
(鶏が鳴くから別れを急がねばならない。鶏の声が聞こえない里で夜明けを迎えたいものだ)

この歌の伝説から、大阪天満宮周辺では「鶏を飼わない(卵を食べない)」という風習が生まれたと伝えられています。

十二支の方位盤から消えた「酉」

大阪天満宮の表大門の天井には、「十二支方位盤」が吊るされています。 ここには十二支(子・丑・寅…)の動物が描かれていますが、よく見ると「酉(とり)」の位置に鶏がいません。 鶏を避けるため、代わりに「鳳凰(ほうおう)」が描かれているのです。

3. まとめ

悪いことを嘘にして幸運を運んでくる愛らしい「鷽(うそ)」。 そして、道真公の悲しみを思い出させるために避けられる「鶏」

大阪天満宮における「鳥」の扱いの違いには、1000年以上続く道真公への敬愛と、人々の幸福への願いが込められています。 初詣や受験祈願で訪れた際は、ぜひ鷽替え神事や、表大門の鳳凰にも注目してみてください。

参考文献

  • 宮田登・田中宣一『三省堂年中行事事典』三省堂
  • 高島幸次『大阪天満宮と天神祭』創元社

大阪天満宮のお宮参り・七五三の家族写真・記念写真は

スタジオアージュはJR東西線「大阪天満宮」駅、大阪地下鉄堺筋線・谷町線「南森町」駅から徒歩1分。大阪天満宮まで徒歩2分好立地にあります。
当スタジオは二階にございますがエレベーターも完備いたしていますので、ベビーカーでも安心してお越しいただけます。
ご予約の際はお早めに

※ レンタル衣装はお召になられたまま大阪天満宮ご訪問中までご利用いただけます。

店内撮影OKです。撮った写真をSNSにアップすることも可能です。

※ 価格は新しい消費税(10%)が導入されても変更はありません(2019年6月23日現在)。

詳細はこちら

共有・シェア

家族・友達・SNSで共有する

ご予約・お問い合わせ

電話LINEE-mailでのご予約・お問い合わせにも対応しています。お気軽にご連絡下さい(電話は朝10時〜夜17時まで、本日の電話の受付まであと約1時間後です)。